2012
04.15
Sunday
「時にはぐりーんのように(また、ぐりーんはぐりーんの特徴をよく掴んでいるから聴くだけでぐりーんの曲だと分かる曲をぐりーんは書ける)」の巻
author : 山崎彬
もし、あなたと後二回しか会えないとしたら。
つまり、わたしが後二回で舞台の世界から退くか、またはあなたが後二回で舞台を見ることと決別するか、またはわたしもあなたも舞台から退きも決別もすることはないが、三回先の未来ではもう、わたしとあなたは舞台と客席の関係では無いとしたら。


そんなことを考えて夜、「よし!そうならないように頑張る」と、わざわざきっかけを探さないと「よし!そうならないように頑張る」とならないような舞台は、アタリマエノ舞台でしかないと、最近思っているのです。


親は死ぬ。死んでからでは遅いが、死んでもありがたみを感じられないよりは報われるだろうと、残されたこちらは思いたい。だとしても、僕が80歳に死ぬとして今29歳で、あと51年、年間精一杯やって平均3本だとして、153本で、わたしとあなたは確実に離れ離れになるわけで。

少ない。

奇跡を。

演劇を作るような稽古場じゃダメだ。
演劇はもう作れるのだ。どうしても間に合わなくなったら、仕方なく作ってやるぐらいでいい。所詮演劇だ。そこは申し訳ないけど、演劇の形になるものを作ってやればいい。バレル人にはバレルが、多くの人にはバレない。

時間や精神に追い込まれるまでは、奇跡を、奇跡みたいな時間を、作るつもりでないといけない。

あと153回。

演劇をつくろうとして、劇場の大きさや出演者やスタッフや、お金や年齢や物理的問題や、そんなことばかり考えて、絶望する。しかし僕は初めて演劇に心を動かされたとき、演劇を見ていたわけじゃなかった。奇跡、のような時間をどうとも呼べなくて「演劇」と呼んだものを見ていたのだ。

魔法を使えるのに、魔法にかかっているくせに、トリックとショーアップばかりを経験を駆使して作っても、何も楽しくない。

新しい魔法を。
あいつはバカだといわれても、それでもあたらしい魔法を。


どうしようもなくて「演劇」としか呼べなくて「演劇」としか記録に残らないけれど、劇場にいた人間すべてが奇跡を体験したような時間を与えられる魔法のことを真剣に考える、夜明けだ。

思い返してみると、輝く人はみな演劇ではなく奇跡を追いかけていた。輝いてない人はみな演劇を追いかけていた。そして輝く人は揃って魔法にかかっていた。演劇はどうの作劇はどうのこうのごちゃごちゃ作り手が言ってんじゃねぇよ小せえ。お前はもう、でかいことが現実に起こらないと、何も作れないんだ。毎日歩く夜道の街灯の美しさを見ることはできないんだろう。

大丈夫。こう思える僕は魔法にしっかりとかかってるだろうし、指は何本?5本ですよし正気だいける。馬鹿を追って全力で走っても、人の足じゃ馬鹿は捕まえられないぞ。
| これ書いた直後、就寝 | 06:20 | comments(0) | - | pookmark |
2012
04.06
Friday
「言いたいことなど、はなからない」の巻
author : 山崎彬
目の前の舞台の上に立っている人が、昔々に自分も考えていたようなことと同じことを言っている。

目の前の舞台の上で、昔々に自分も起こしてしまったようなことと同じことが起こっている。

目の前の舞台の上の風景が、昔々に自分も見たことあるような風景である。

目の前の舞台の上の物語が、昔々に観た舞台の上の物語と似ていたら、既視感ありまくりっやんなっちゃうっ、とイラついたりするけれど、ベタと張り付いた昔々の記憶に似ていたら、つまりは自分が乗っている舞台、いやカッコつけた言い回しをした、ごめんなさい、自分が乗っている舞台というのはこれまでの人生のようなことを言いたいのだけれど、目の前の舞台の上の物語が自分のこれまでの人生にベタと張り付いた記憶を蘇らせるようなものであるとき、ドキドキする。

ドキドキであり、ドキッでもあるのであるが。

そ、の、瞬間、に、ドキッがゾクッに変わるようなことがあって、そのゾクッは頭の中で、


「もしかしたら、もしかしたらだ。今お前が過去の自分を見るように舞台を眺めているのと同じく、未来のお前も、客席後方から、今ゾクッとしたお前を見ているかもしれないぞ」


と語りかけてくる。


ドキドキ、ドキッ、ゾクッ、サッと振り返ると、後の席の人と目が合う。


『こやつはもしかしたら未来の自分かもしれない』


と、マジマジと後の席の人の顔を見ていると、知らず知らずのうちに恋に落ちてしまった。その人は怪訝な顔でこちらを見ている。悪い気がするのだけれど、目をそらすことができない、離すことができない。目をそらしたら離したら、もう二度と会えない気がする。目をそらしたら離したら、その人は未来に帰ってしまうような気がする。


こんな感じで今夜もまた「カナヅチ女、夜泳ぐ」の種に水をやっている夜なのだけれど、事実、台本の枚数は増えているわけではない。台本の枚数が増えないと焦ることもなくはないのだけど、こうやってジョウロから出る水が確実に埋まっているであろう種を感じる土にかかり染み込む様が目に浮かぶ限り、恐れることは何もない。


演劇の台本なんて3日くらいで一気に書きあがる方がよくて、種に水をやるのを忘れて、収穫の段取りばかりに目がいっても、一ミリもいいことなんかない。



「包茎の皮は一気に剥く方がよい」と中学の時の友人に言われ、チマチマやるのではなく、言われた通り夏なのに風呂に湯をはって、湯船浸かりながら一気に攻め込んだら、見事、剥けた。剥けたのだが、以降2週間ほど、パンパンに腫れて腫れて、トランクスが擦れないように、足挫いてないのに足引きづって歩くみたいになった。確かに、その痛みと恥らいを負ったが、腫れが引くと剥けた状態で収まった。台本を書くなんてこれに似たようなものだ。


何を言ってるんだ、僕は。猫で許されたい。


許されたい夜も、いつもの夜と同じように明ける。



| これ書いた直後、就寝 | 05:12 | comments(0) | - | pookmark |
2012
04.05
Thursday
「言いたいことはなくなった」の巻
author : 山崎彬



このところ夜について考えているのは6月7月に控えた次回本公演「カナヅチ女、夜泳ぐ」の執筆中だからして、夜について考えていると色んな人、動物、虫、魚、鳥といった生き物の夜や、地域、国、時代、文化、音楽なんていうものに取り巻いている夜のことが気になって気になってクルクルになってくるので、眠れやしない夜ばかりが続く。

眠れば終わってしまう夜は眠らなければ終わらない。けれど、眠らなくても夜は終わり朝が来る。


どこから朝なんだ????????


3時30分はまだ夜だと思うので、3時31分も夜だろう、とそんなことを考えていると、じゃあ3時59分はまだ夜だから、4時00分も1分しか変わらないし夜、ん、と、いつまでたっても夜だ、と、あ、と、こうして、また僕は夜に喰い殺されるわけだ。


やがて、皆様がたくさん働いてくれている昼にたくさん眠り、夕方稽古に行き、夜、また夜のことを考える。

ダメだ。

夜に夜のことを考えるのは、とても理にかなっているように感じるがどうもよくない。夜には僕はどうもやがてくる朝、つまり未来のことを考えているようで、実は夜に僕は昔のことを考えやすいということに気がついてしまうのだった。


逆に昼はどうか、と今現在の夜にまた昼のことを、しかも今までのつまり過去の昼のことを考えているわけだけれど、昼には夜、それは今晩の飯はどうしようかといった類をも含むやがて必ずやってくるであろう夜のことを考えていたなあと、思い出し、思う。

しかしそれもまた過去の夜を参考にした夜なのだった。

昔の夜のことを考えることしかできない。

こんな感じでいつものように、台本を書く種に水をやっていくわけだけれど、結局、初めて台本を書いたときから何も変わっておらず、そしてまた変わることはないんだろうと確信する。


一艇の舟で海に出て、進化するべく修理し続け、はたと気づくと今現在乗っている、この海原をいざ行かんとするこの舟は、はじめて海に出たときの舟に使っていた材料や部品は一つもなく、全く違う舟になっているわけだけれど、今の舟もはじめて海に出たときの舟も、同じ僕の舟と呼べるのだろうか。

細胞も、気持ちも、取り巻く周りの人間関係も、変化しながら海を進む。そして劇団も。

僕は、はじめて海に出たときの、あの頼りないけれど希望に満ちていた舟の乗り心地を忘れちゃあいけないと、そして、少し忘れてもいいんだと、胸に。。。


僕の文章は、どこにもいかず、今はただ、部屋の中に閉じこもっているのであった。

| これ書いた直後、就寝 | 02:43 | comments(0) | - | pookmark |